[6/30] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「いよいよ来週の月曜日から
 北海道・洞爺湖でサミットが開かれますね。
 洞爺湖という湖の名前が世界的にも
 知られるようになりますけれども。
 そこで今週は、湖のお話をしたいと思います。」

今日は洞爺湖のお話をします。

洞爺湖は札幌から車で約2時間のところにあります。
支笏洞爺国立公園というところの中にある湖です。

この洞爺湖を中心とした景色はとてもきれいで、
年間400万人もの観光客が訪れるのだそうです。

洞爺湖は北海道を代表する観光スポットでもあります。

洞爺湖は今から約10万年前、
火山が噴火してその跡にできたくぼ地に
水がたまってできました。

このくぼ地をカルデラというふうに言って、
こうしてできた湖のことをカルデラ湖というそうです。

カルデラというのはポルトガル語で
「大きな鍋」という意味があるそうです。

カルデラ湖としましては、同じ北海道の屈斜路湖、
そして支笏湖に次ぐ日本で3番目の大きさです。

面積で言いますと、70.4平方キロメートルです。

洞爺湖の周辺には有珠山や昭和新山など
現在も活動している火山があります。

洞爺湖には4つの島が湖の中にありまして、
それぞれ、中島、弁天島、観音島、饅頭島
という名前がついています。

この4つの島をまとめて中島というふうに
呼んでいるのだそうです。

この4つの島の中でも最大の大島(※)には
たくさんの野生の鹿が生息しているそうです。

この島には鹿の天敵である熊とか
そういうものがいないので、
鹿にとっては楽園なのです。

他にもたくさんの野鳥がいて、まさに自然の宝庫です。

この大島には観光船で渡ることが
できるそうですけれども、
上陸しても見学できるのは
洞爺湖森林博物館だけだということで、
自然保護のためですよね。

また、この洞爺湖は冬でも凍らない湖なのだそうで、
そのために鴨の仲間などさまざまな水鳥たちも
やってくるという、そんな湖なのだそうです。

「私、洞爺湖にはまだ行ったことないんですけれども、
 支笏湖はね、行ったことあります。
 きれいな湖でした。

 あれですね、サミットが終わって
 少し落ち着いたあたりで
 ぜひ洞爺湖も訪れてみたいななんて。

 夏の北海道もいいもんですよね。
 そんなふうに思っています。

 そんなわけで、今週は湖のお話をしてまいります。」


(※) 4島の中でいちばん大きな中島を大島と呼ぶそうです


<洞爺湖町へようこそ>

<北海道洞爺湖サミット>

[6/27] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「うな丼、親子丼、カツ丼、牛丼のお話を
 させていただきましたけれども、
 最終日は天丼のお話です。」

天丼の天ぷら。

天ぷらにはいろんな説があって、
例えば16世紀後半、安土桃山時代に
現在の東南アジアから入ってきた料理と言われていて、
それが大阪を経由して江戸時代に
江戸に伝わったというお話とか。

あとは、ポルトガルでテンポラスというふうに言われている
フリッターが天ぷらの原形というふうにも言われています。

当時江戸では江戸前でとれた魚を揚げたものを
天ぷらというふうに呼んで、
野菜を揚げたものは精進揚げというふうに言って
区別をしていたのだそうです。

素材だけでなくて、江戸前の天ぷらの
特徴は揚げ方にもありまして、
ごま油を使ってきつね色に揚げていました。

昔は油が貴重品だったので
つぎ足して使っていたから
色がきつね色になったのだそうです。

当然油っこさが残りますから
それをやわらげるために大根おろしと天つゆで
食べるようになったのだそうです。

当時天ぷらは屋台で売られていて、
その手軽さから庶民の味となりました。

そして、天丼が生まれたのは
明治時代に入ってからです。

お店のお客さんが天ぷらを
ご飯の上にのせて食べたのがきっかけではないかと
いうふうに言われています。

丼ものに共通するのは手軽に素早く食べられる
というところですけれども、
天丼に関してもやっぱり手軽さ、
同じ理由で好まれたのだそうです。

「普通天丼と言いますと、
 揚げた天ぷらに丼汁、天丼のたれをかけて、
 その天丼のたれがご飯にもしみ込んでおいしいぞ~
 みたいなのを想像しますけれども。

 塩天丼というのもここ最近
 話題になっているんだそうですね。

 今週はうな丼、親子丼、カツ丼、
 牛丼、天丼というふうに、
 本当に日本特有の素晴らしい文化の数々を(笑)
 ご紹介させていただきましたけれども。

 本当に今週はね、毎日毎日ね、
 丼ものが食べたくなってたいへんでしたね(笑)

 ほんとにうな丼の話していると
 うなぎ食べたくなっちゃうし、
 天丼の話していると天丼食べたくなっちゃうし、
 牛丼も親子丼も毎日食べたくて。

 みなさんはお昼に召し上がって
 いただけましたでしょうか?

 今週最後は天丼だったんですけれども、
 普通の天丼もしくは塩天丼、
 どうぞお昼に召し上がってください。」

<天丼(ウィキペディア)>

<天ぷらの歴史>

[6/26] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「薄切りにした牛肉を玉ねぎと一緒に煮て、
 それをお丼のご飯にかけたものといえば牛丼ですね。
 今日はその牛丼のお話をします。」

明治時代になり、文明開化とともに
日本人の食生活も大きく変わってきました。
その一つが牛肉です。

牛肉を食べる習慣が根付いてから
牛鍋屋さんがたくさん誕生しました。

この牛鍋は関東風のすき焼きのルーツとも言われ、
牛鍋の残ったお汁をご飯にかけて食べたところ
おいしかったので、
あっという間に人気になったのだそうです。

これが牛丼の原形ということになるそうです。

これをヒントに牛めし屋さんというのが
次々と誕生しました。

牛めしは現在の牛丼とは違って、
牛の内臓やタンなどを細かく切って
お醤油にお味噌を混ぜた汁て煮込んだものを
ご飯にかけていたので、
別名ぶっかけ飯とも呼ばれていたのだそうです。

また、この頃の牛丼は「カメチャブ」
とも呼ばれていたそうで、
この「カメ」というのは犬を意味するそうです。

どうして犬が「カメ」なのかと言いますと、
これは当時西洋の人が犬を呼ぶときに
「カム、カム!」と、「こっち来い、来い!」
ということで「カム、カム!」と
呼んでいるのを聞いた当時の日本人が、
西洋では犬のことを「カメ」と呼ぶのだと
勘違いしたからなのだそうです。

そして、「チャブ」というのはちゃぶ台のことで、
そう考えると「カメチャブ」というのは
「犬のご飯」ということになるのですね。

牛丼といえば吉野家さんがやっぱり有名ですけれども、
吉野家さんが誕生したのは明治32年。
場所は、当時の日本橋にあった魚河岸です。

「火曜日に親子丼の誕生のお話を
 させていただいたときに、
 やっぱり当時のね、日本橋・魚河岸で働く人たちが
 手軽に食べられるようにできたというふうに
 お話ししましたけれども、
 吉野家さんの牛丼も同じ理由だったそうです。

 その後、魚河岸が築地に移ったのに合わせて
 吉野家さんもお引っ越しされて、
 築地市場にあるお店は吉野家さんの1号店としてね、
 今でもほんとに由緒正しき、
 そういうお店なんでしょうね。

 吉野家さんといえば今では全頭検査もされていて、
 ほんとに安全な牛丼を提供してくださるので
 安心していただけるという意味では
 ほんとに私好きです。

 吉野家の牛丼はほんとに時々
 食べたくなるおいしい牛丼ですね。」

<牛丼(ウィキペディア)>

<吉野家>

[6/25] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今日はカツ丼のお話なんですけれども、
 昨日までご紹介したうな丼や親子丼と違って
 カツ丼のルーツには諸説あるそうです。
 いったいどんな説でしょうか。」

カツ丼のお話をさせていただく前に、
はじめてポークカツレツ、
いわゆるとんかつがお店に登場したのは
明治32年のことです。

銀座の老舗レストラン、
煉瓦亭のメニューに登場しました。

当時のとんかつの付け合わせは温野菜で、
カツにはブラウンソースが
かけられていたのだそうです。

その2年後、ブラウンソースの代わりにウスターソース、
温野菜の代わりに千切りキャベツ、
そしてパンの代わりにご飯を添えて
日本人に食べやすいかたちで出されたのだそうです。
これが急速に日本中に広まったそうです。

早稲田にあるおそば屋さんが
学生さんにたくさん食べさせてあげたい
という思いではじめて作ったというふうにも
言われています。

この早稲田にあるおそば屋さん、三朝庵。

三朝庵のご主人がどじょうの柳川鍋を
ヒントに考え出したのが、このカツを卵でとじた
カツ丼だというふうに言われています。

カツ丼にはここ数年注目を集めるようになった
ソースカツ丼というのがあるそうです。

ソースカツ丼というのは当時東京、
こちらも早稲田にあったヨーロッパ軒の創業者
高畠増太郎さんが大正2年、
東京で開かれた料理発表会で
披露したのが始まりとされています。

このヨーロッパ軒は関東大震災の後、
高畠さんの故郷福井市に移転しましたが、
それ以降ソースカツ丼が福井県内に
広まったと言われています。

「今のお話以外にもソースカツ丼の
 誕生のエピソードというのは、
 なんか全国いろんなところで
 あるそうなんですけれども。

 みなさんはソースカツ丼って馴染みありますか?

 私はちょっといただいたことがないので
 いまいちちょっとピンとこないんですけれども。

 あれなんですってね、ソースカツ丼って
 お好きな方というか玄人の方には
 このソースへのこだわりっていうのは
 すごくあるそうですね。

 やっぱりウスターソースじゃなきゃダメみたいな、
 とんかつソースじゃダメみたいな、
 なんかいろいろ聞いたことあるんですけれども。

 知り合いにね、北陸の方がいらして、
 その方ははじめて食べたのが
 やっぱりソースカツ丼だったそうで、
 もう「カツ丼=ソースカツ丼」なんですって。

 逆に卵でとじるものはもうカツ丼の概念には
 ないそうなんですよね。
 不思議ですよね。

 なので、ちょっとぜひ福井、
 私大好きなところなので、いつかね、
 福井に行けたらちょっと本場でソースカツ丼を
 いただきたいなと思います。」

<カツ丼(ウィキペディア)>

<煉瓦亭公式ホームページ>

<ヨーロッパ軒総本店>

[6/24] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「鶏肉と卵を使った丼ものといえば親子丼です。
 鶏と卵、親子がご飯の上にのっているので
 親子丼なんですけれども、
 今日はその親子丼のお話をしたいと思います。」

親子丼は江戸時代後期、
1760年に創業された東京の人形町にある
鳥料理専門店「玉ひで」が発祥だと言われています。

考えたのは玉ひで5代目の山田秀吉さんの
奥様の山田とくさん。
時代は明治24年です。

この山田とくさんは鶏鍋の残りの割り下を
卵でとじる食べ方をヒントに
親子丼を思いついたのだそうです。

その親子丼が人気を集めたのは、
この当時日本橋に魚河岸があって、
そこで働く人たちが仕事の合間に
さっと食べられる手軽さからだったそうです。

今でも親子丼は玉ひでさんの
看板メニューですけれども、
こだわりがあって、香りがある具というのは
入れないのだそうです。

例えば、一般的には親子丼というのは
鶏肉と玉ねぎと一緒に煮て卵でとじた後に
お好みでみつばなんかをのせたりしてますけれども、
玉ひでさんの親子丼は非常にシンプルで、
しゃものお肉と卵をお醤油とみりんで
味付けしたものなのだそうです。

ちなみに、北海道では鮭とイクラを
ご飯の上にのせたものを親子丼と確かに言いますね。

でも、もちろん北海道でも鶏肉と卵を合わせたものも
親子丼というふうに言うそうですから、
北海道のほうには2種類の親子丼が
あるということになります。

「そうやって考えてみると、
 親子でいろいろ考えられないかなって
 考えていくと、どうでしょう。

 蟹と蟹子の丼ものとか
 なんかありそうくない?
 ダメ?(笑)
 どうなんでしょう。
 なんか北海道だとありそうですね。

 この鶏肉を豚肉や牛肉に変えたものが
 他人丼というふうに言われていて、
 開化丼と呼ばれていたりも
 するそうなんですけれども。

 私は子供心に初めてお店で
 他人丼っていうのを見たときに、
 そうか、なるほど確かに他人だって
 妙に納得した覚えがあるんですけどね(笑)

 一番最初に鶏肉と卵を合わせた丼を
 親子丼って名前をつけたことも
 すごく画期的だと私は思うんですけれどもね。

 どうですか?
 今日のお昼、親子丼?」

<玉ひで>

<【親子丼】鶏の親子が丼になるまで・・・>

[6/23] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「日本の食文化の一つに丼(どんぶり)ものがありますね。
 古くから庶民の食べ物として年齢、
 性別を問わず親しまれています。
 そこで今週は、丼もののお話をしたいと思います。」

丼もののルーツは室町時代に流行した
「ほうはん」だと言われています。

「ほうはん」というのは芳しい、
香りがよいというほうの「芳」に「ご飯」
と書いて芳飯です。

ご飯をおわんに盛って、その上に
野菜類や金糸卵などの具を刻んできれいに飾って、
それにたれ味噌と呼ばれるお味噌を
水で煮てこした汁をかけて食べていた
というふうに言われています。

でも、芳飯は上流階級の食べ物で
庶民とは縁遠いものだったのだそうです。

丼ものにはたくさんの種類がありますが、
最初に誕生したのはうな丼だと言われています。

時代は江戸の後期の頃、
現在の東京都日本橋人形町に
大久保今助さんという人がいました。

今助さんはよく仕事で
現在の茨城県北部へ出かけていました。

当時北部へ向かうには街道を通るより、
牛久沼を舟で渡るのが一番早い方法でした。

牛久沼の船着き場のそばにお茶屋さんがありました。

あるとき今助さんが舟を待っていたところ、
お茶屋さんからうなぎの蒲焼の
いい匂いがしてきたのだそうです。

その匂いでお腹がすいた今助さんは
うなぎを注文しました。

当時のうなぎの食べ方は、
お皿に蒲焼がのっていて
ご飯は別だったのです。

やがて運ばれてきたうなぎを
今助さんが食べようとしたところ、
「舟が出るぞ~」
という声がしました。

それで、そのとき今助さんがした行動というのが、
お茶碗のご飯の上に蒲焼をのせて、
うなぎが入っていたそのお皿を
ふたのかわりにしてお茶碗の上に置いて、
それを持っていったそうです。

やがて舟が向こう岸に着いて今助さんが
ゆっくりと先ほどのうなぎを食べようと、
そのお皿を、ふたを取ったところ
蒲焼のたれがご飯にしみ込んで、
さらにうなぎはほどよく蒸されて
ホクホクになっていたのだそうです。

これをヒントに今助さんは
自分の芝居小屋でうな丼を売り出して、
それが庶民の間で流行したと
いうことなのだそうです。

「ひょんなことでね、
 うな丼っていうのは生まれたんですね。

 そのふたを開けたときのね、香り、
 それに、そこに山椒をふりかける、
 それで、その蒸されてふわっとなった
 うなぎの素晴らしい世界。

 これはほんとに幸せですよね。
 今日のお昼、ぜひうな丼召し上がってください。」

<芳飯(ほうはん)- 汁かけ飯>

<「うな丼」発明者・大久保今助と牛久沼>

[6/20] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「高等養護学校に通うきいちゃんは、
 お姉さんの結婚のお祝いに
 浴衣を縫ってプレゼントすることにしました。
 それを温かく見守る山元加津子先生ときいちゃんの物語、
 今日はその続きです。」

小さいころの高熱が原因で
手足が不自由になったきいちゃんですが、
それでもお姉さんのために浴衣を縫い始めました。

学校の休み時間も宿舎へ帰ってからも
きいちゃんはずっと浴衣を縫っていました。

きいちゃんは、

「お姉ちゃんの結婚のプレゼントだから
 絶対に一人で縫うよ」

と一人で頑張っていました。

そして、結婚式の10日前に浴衣が出来上がりました。

お姉さんのところへ浴衣を贈ってから数日後、
先生のところへきいちゃんのお姉さんから
電話がかかってきました。

「きいちゃんと、そして先生も
 ぜひ結婚式に出てください」

そして、先生はきいちゃんと一緒に結婚式に出ました。

式が進みお色直しになりました。

そして、再び扉を開けて入ってきた
お姉さんの姿を見て先生は驚きました。

なぜならお姉さんは
きいちゃんが縫った浴衣を着ていたのです。

その浴衣はお姉さんにとってもよく似合っていました。

そして、お姉さんはマイクの前に立って話し始めました。

「この浴衣は私の妹が縫ってくれました。

 妹は小さいときに高い熱が出て
 手足が不自由になりました。

 そのために家から離れて
 生活しなくてはなりませんでした。

 家で父や母と暮らしている私のことを
 恨んでいるのではないかと思ったこともありました。

 でも、妹はそんなことは決してなく、
 私のためにこんな立派な浴衣を縫ってくれたのです。

 妹は私の誇りです。」

そして、きいちゃんを呼んで

「私の大事な妹です」

と紹介しました。

その瞬間、式場はたくさんの拍手で
いっぱいになりました。

先生はこの素晴らしい姉妹を見て
涙が止まらなかったそうです。

この日を境にきいちゃんは
とても明るい女の子になったそうです。

そして、お姉さんの浴衣を縫ったのをきっかけに
きいちゃんは和裁を習い始め、
和裁を一生のお仕事に選んだのだそうです。

「このお話は『きいちゃんの浴衣』という題名で
 本になっています。
 よかったら読んでくださいね。

 ということで、今週は結婚式にまつわる
 心温まるお話をお送りいたしました。」

<たんぽぽの仲間たち(みんな素敵)>

<『きいちゃん/山元加津子(著)』>

[6/19] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「山元加津子さんという方がいらっしゃいます。
 山本さんは養護施設の先生をされながら、
 施設で出会った子供たちとの心温まる出来事などを
 本や講演を通じて紹介しながら、
 子供たちがより社会に理解されるよう
 活動されている方です。
 今日はその山本先生と一人の女の子
 きいちゃんとのお話をご紹介します。」

きいちゃんは小さい頃、高熱が原因で
手や足が不自由になってしまいました。

きいちゃんが高等養護学校の頃、
普段はうつむいて一人ぼっちで座っていたのだそうです。

そんなきいちゃんがある日、
職員室に来て山本先生に向かって

「先生~!」

と大きな声でうれしそうに飛び込んできたそうです。

先生が

「どうしたの?」

ときいちゃんに聞くと、ニコニコしながら

「お姉さんが結婚するの。私結婚式に出るのよ。」

と言いました。

「私何着ていこうかな」

と笑顔で話すきいちゃんに
先生もうれしくなったのだそうです。

ところが、それから何日かした後、
山本先生は教室で机に顔を押しつけるようにして
泣いているきいちゃんを見つけました。

先生が

「どうしたの?」

と聞くと、きいちゃんは泣きながら

「お母さんが私に結婚式に出ないでほしいっていうの。
 お母さんはお姉さんのことばかり考えているの。
 私なんて生まれてこなければよかったのに。」

と言ったのだそうです。

でも、きいちゃんのお母さんは
決してそんな人ではないことを先生は知っていました。

きいちゃんは少しでも手足が動くように
訓練を受けるために、
家から遠く離れた山本先生の学校に入っています。

きいちゃんのお母さんは面会日のたびに
まだ暗いうちに家を出て、
電車やバスをいくつも乗り継ぎ4時間もかけて
きいちゃんに会いに来ていました。

誰よりもきいちゃんのことを思っているお母さんが
結婚式に出ないでほしいと言ったのであれば、
それはよっぽどの理由があるに違いありません。

でも、私には何もしてあげることができない、
さまざまな思いが先生の頭をよぎっていく中、
先生はきいちゃんに言いました。

「結婚式のお祝いのプレゼントを作ろうよ」

何をプレゼントしようか考えた結果、
先生は布を染める染色をきいちゃんのために
習ったのだそうです。

そして、真白な布をきいちゃんと一緒に
夕陽色に染めて、その布で浴衣を縫って
お姉さんにプレゼントすることにしました。

「きいちゃんと山本先生の思いは
 お姉さんのもとへ届くのでしょうか。
 この続きは明日お話ししたいと思います。」

[6/18] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「1980年、アメリカ・オハイオ州で
 10代同士のカップルが結婚式を挙げました。
 それから27年経った去年、
 二人に思いがけない出来事が起きました。
 今日はそのお話です。」

1980年、当時18歳のカレンさんは
19歳のマークさんと結婚式を挙げました。

しかし、若い二人にはお金がなかったので、
カレンさんは自分でブーケを作り、
ウェディングドレスはお姉さんのを借りて着ました。

質素な結婚式だったそうですが、
それでも二人は幸せいっぱいでした。

でも、一つだけ心が痛んだことがあるそうです。

それは、結婚式で撮影してもらった
記念の写真を集めたアルバムを頼んだものの
予算が足りず、その代金150ドルを
支払うことができなかったのです。

結局カレンさんが持っているのは
誰か知人が撮ってくれたたった1枚の写真、
それもカレンさんが歩いている姿の写真だけでした。

月日が流れ、去年の10月、
27回目の結婚記念日を間近に控えたある日のこと。

カレンさんが働いているレストランに
年配の紳士が現れました。

その紳士はカレンさんを見て言いました。

「あぁ、なんとあなたは成長されたことか」

でも、カレンさんは、

「すいません、私はあなたを覚えていないのですが」

と答えました。

するとその年配の紳士は

「たぶんこれなら覚えているでしょう」

とあるものを差し出しました。

それを見たカレンさんの目からは
大粒の涙がこぼれました。

なぜならそこには27年前、
150ドルのお金が支払えず断念した
結婚式の写真のアルバムがあったのです。

80歳になるその紳士はカレンさんの結婚式で
写真を撮った写真家だったのです。

その写真家の紳士は家の整理をしていて
偶然そのアルバムを見つけ、
当時カレンさんがお金を持っていなくて
買えなかったことを思い出したのだそうです。

今でもきっとその時の写真が欲しいに違いない、
そう思ってカレンさんの連絡先を何とか探し出して
このレストランに訪ねてきてくれたのだそうです。

カレンさんは27年前に払うことができなかった
150ドルを写真家の紳士に渡すと、
紳士の目からも涙がこぼれたのだそうです。