[2/26] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は橋のお話をしています。
 昨日に続きまして今日も
 世界記録を持つ橋のお話をします。」

今日は世界一高い橋をご紹介します。

それは南フランスのミヨーというところ、
ミヨー近郊のタルン川渓谷にかかる
ミヨー橋という橋です。

こちらは全長2460m。

地面からの高さというのは
一番高いところで343mなのだそうです。

「343mっていうことは
 東京タワーより高いんですよ。
 すごくないですか。」

道路が通っている部分でも
270mの高さがあるということです。

「270mっていいますと
 東京都庁よりも少し低いくらいなんですって。」

このミヨー橋ですけれども、
できましたのが2004年の12月ということです。

この橋ができるまで
フランスの南北を貫く国道を通る車というのは、
高低差300m以上というとても長い坂道を下って、

「渓谷ですからね」

町の近くを通って、
また300mの高さへ坂道を上って
通らなければいけなかったということです。

この坂なのですけれども、
ここはまた交通の難所で、
特に7月の後半から8月にかけての
バカンスシーズンになりますと、
パリから南部へ向かう車で激しい渋滞が
起きていたということです。

それを解消するために高速道路を
つくるしかないということで、
この343mという世界一高いところにある
ミヨー橋という橋が建設されたということです。

このタルン川渓谷というのは
早朝などに霧が発生しやすいところで、
ほんと橋ができてよかったなと
思ったんですけれども、
時間帯によっては雲の上に
橋がかかった状態になります。

「それはそれは神秘的でね、
 とっても美しい景色です。」

他にも橋の種類ですとか、
どこからどこまでの長さというのを細かく特定しないで
現在世界で最長の橋というふうに言われている橋が、
アメリカ・ルイジアナ州のポンチャートレイン湖という
湖にかかるコーズウェイという橋なのだそうです。

これは全長が38.41km。

「ギネスブックにもね、
 登録されているそうなんですけれども。

 東京から言いますと
 もう横浜も超えちゃっている距離です。

 関西で言うと軽く大阪-神戸間を超えた距離。

 それぐらい長い橋が湖に
 かかっているということなんです。」

<ミヨー橋(ウィキペディア)>

<Le Viaduc de Millau(ミヨー橋公式サイト)>

<ポンチャートレイン湖コーズウェイ(ウィキペディア)>

[2/25] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は橋のお話をしています。
 世界にはたくさんの橋があります。
 そんな橋の中には世界記録を持つ橋もあります。
 今日はそんなお話です。」

実は、日本には人が歩くことのできる木造の橋として
世界一の長さを誇る橋というのがあります。

それは静岡県島田市にあります
蓬莱橋(ほうらいばし)という橋です。

長さは897.4m、幅が2.4mの長い橋です。

この蓬莱橋は大井川という川にかけられている橋で、
完成は明治12年。

「すごいですね」

130年以上の歴史を持ちます。

先ほど木造の橋というふうに言いましたけれども、
橋の脚の部分は昭和40年に
コンクリート化されているそうです。

「そのほうが安全ですよね」

この蓬莱橋ですけれども、
国や自治体がつくったのではなくて
周辺に住んでいらした農家の方が
お金を出し合ってつくった橋なのだそうです。

ですので、関係者以外の方が橋を渡るときには
通行料を取っていたそうです。

その名残から今も通行料が
必要だということなのですけれども、
とっても良心的な通行料で
大人の人が歩いて渡る場合は100円、
小学生以下の場合は10円、
そして、自転車で渡るときは
100円というふうになっています。

通行時間は午前8時半から
午後5時までということです。

「ちゃんとしっかりした橋ですよね」

この長さが897.4mありますけれども、
この橋を歩いて渡りますと向こう側に着くのに
20分ぐらいかかるということです。

「渡ってみたいなぁ」

この蓬莱橋ですけれども、
1997年にギネスブックで世界一の長さを誇る
木造歩道橋として認定されたということです。

では、世界一短い橋というのはないのかな
というふうに調べてみたところ、
正式に記録になっているようなものは
なかったのですけれども、
ただし、世界一短い国境の橋と言われている
橋があるそうです。

それはアメリカとカナダの国境にあります
セントローレンス川という川にあります。

その川には1000を超す島々からなる
サウザンアイランドという地域が
あるらしいのですけれども、
こうした島々というのは主に大富豪の方々が別荘を
建てているような島なのだそうですけれども、
その1000を超える島の中に
カナダとアメリカの国境がありまして、
その島と島の間にかかる長さ10mほどの橋が
世界一短い国境の橋というふうに
言われているのだそうです。

<蓬莱橋~島田市~>

<麗しのカナダ東部ハイライト8日間>

[2/24] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は橋のお話をしています。
 今日は橋に関する意外なお話をします。」

橋を渡ったとき橋の名前が書かれてあるのを
ご覧になったことがあるかと思いますけれども、
実はこの橋の名前が漢字とひらがなで
記されているというのをご存知でしょうか。

どういうことかと申しますと、
橋に差し掛かったときに橋の左側のところに
その橋の名前が書かれてあります。

そのとき橋の名前がもし漢字で書かれていたら、
そのまま橋を渡って今度は同じように
逆側の橋の左側をご覧になってみてください。

そしたらそこにはひらがなで
同じ橋の名前が書かれていると思います。

その橋の名前が書かれている板を
「橋の名前の板」と書いて「橋名板」
というふうに言うそうなのですけれども、
この橋名板には橋の名前が
漢字とひらがなで書かれているだけではなくて、
川の名前ですとか、橋が完成した年や月なども
記されているのです。

道路ですとか橋にも
起点終点というのがあるそうです。

わかりやすく言いますと、
橋の起点は橋の入り口になります。

そして、橋の終点は橋の出口。

だから橋には入り口と出口という解釈が
あるということなのですけれども、
基本的には橋の入り口側には
左側に橋の名前を漢字で書いてあります。

そしてその右側には川の名前が記されていて、
それで橋を渡っていただいて振り返りますと
橋の出口側の橋の左側には
ひらがなで橋の名前が書かれていて、
その右側には橋が完成した年と月が
記されているということです。

「なのでお近くのね、
 橋があるところをですね、
 ぜひちょっと見に行って
 いただきたいんですけれども。

 橋を渡ろうとしたときに左側を見たときに
 漢字で橋の名前が書かれていたら橋の入り口。

 そして、もし渡ろうとした橋の
 左側にひらがなで書かれていた場合、
 それは出口側っていうことに
 なるっていうことなんですね。」

あと、橋の名前が日本橋とかみたいに
「ばし」というふうに濁る場合、
橋名板には「にほんはし」というふうに
濁らずに記されることが多いそうです。

それはどうしてかと言いますと、
濁音をとる理由なんですけれども、
その橋がかかっている川の水が
濁らないようにという思いを込めて
そのようにしているそうです。

「ぜひお近くの橋、
 1回ちょっと橋名板見てみてください。
 どんなふうになっているでしょうね。
 いろんなタイプがあるみたいなので
 見てみてください。」

<道路まめ知識>

[2/23] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は橋のお話をしています。
 石のアーチ橋づくりの技術は
 日本には中国から伝わりました。
 一つは現在の沖縄、当時の琉球王国に、
 そしてもう一つは長崎に伝えられました。
 昨日沖縄に伝えられたお話を
 させていただいたんですけれども、
 今日はもう一つの長崎のお話を
 したいと思います。」

江戸時代、長崎は日本に一つしかない
海外との貿易港でした。

当時長崎で暮らす中国の方は
数千人いたと言われています。

そうした中国の方々の心の支えとして1620年、
長崎に興福寺というお寺が建てられました。

この興福寺のお坊さんは如定(にょじょう)さんという
中国出身の方だったのだそうですけれども、
当時長崎を流れる中島川は度重なる洪水で
木の橋がよく流されていたのだそうです。

そこでその興福寺のお坊さんの如定さんが
自分の国に数多くある石橋をかけることを
提案されたのだそうです。

そして1634年、石造りの橋がかけられました。

その橋があの有名な長崎・眼鏡橋です。

2つの橋のアーチが川面に映る姿がまるで
眼鏡のように見えることから
その名前がついたのですけれども、
1960年、昭和35年に眼鏡橋は
重要文化財に指定されて、
観光の名所、長崎を代表する景色になっています。

この石造りのアーチ橋の技術というのは
その後も伝えられるようになって、
その一人が長崎奉行所にいらした
藤原林七さんという武士の方だったそうです。

その林七さんは眼鏡橋を見て
どうして橋が落ちないのか、
その不思議さに驚いたそうです。

そして密かにオランダ人の人から
その設計技術を教えてもらったのだそうです。

ただ、当時外国の人と許可なく
接するということを禁じられていたために、
その林七さんは長崎を追われて肥後、
現在の熊本県の山村に隠れ住んでいたそうです。

林七さんは長崎にあるような
石造りのアーチ橋をつくろうと
研究を重ねて技術を磨いた結果、
独自のアーチ橋の技術を完成させたのだそうです。

「その林七さんの子孫たちっていうのは、
 また歴史に残る数多くの橋をかけ続けてきたと。

 九州にはね、現在400以上もの
 石造りの橋があるそうなんですけれども、
 これもですね、林七さんの技術に
 よるものなんだそうです。

 ロマンがありますよね、林七さん。」

<眼鏡橋~長崎ガイド~>

<眼鏡橋(長崎市)(ウィキペディア)>

<藤原林七(ウィキペディア)>

[2/22] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「以前この番組で橋について
 お話しさせていただきました。
 ブリッジです。
 そのときにね、ご紹介できなかったお話が
 まだまだありますので、
 今週は橋のお話の続きをしたいと思います。」

今朝は橋の歴史についてです。

古くから川があって、その川はときに
通行の妨げとなることもあります。

でも、あるとき偶然にも川の両側に
横たわるように大きな木が倒れて、
その上を歩くことによって向こう岸に
渡れるということがわかります。

やがて自分たちの力で木を切り倒して
橋をつくるようになります。

でも、大きな木がないところもあります。

そこで考えた結果、
石で橋をつくることになります。

最初は川の中に突き出た岩に
長い石を載せただけの
簡単なものだったのだそうです。

しかし、技術が発達してくると
たくさんの石を組み合わせて
大きな石の橋をつくって、
それを川にかけるようになりました。

例えば、今も残っていますけれども、
ローマの水道橋という橋は
およそ2000年も前につくられた、
そんな橋です。

しかもすごいのはただまっすぐな
橋をつくるだけではなくて、
アーチ型にする技術を
その2000年前に持っていたのです。

アーチ型は半円に石が積まれて、
それぞれの重量によって石同士がしっかりと
組み合わさってできています。

ですので、橋の上を重いものが通過しても
十分に耐えられる強度を誇っています。

さらに石の橋づくりの技術というのは、
ローマ帝国が栄えるとともに
どんどん進化していったそうです。

中国でも紀元前の頃からこの技術というのは
盛んだったのだそうです。

では、日本にはどのようにして
この技術が伝わってきたかといいますと、
中国から2つのルートで伝わった
というふうに言われているそうで、
一つは現在の沖縄である琉球王国に、
そしてもう一つは長崎に伝わったそうです。

そんな中、沖縄の首里にあります
円覚寺の池にかけられた
天女橋という橋があるのですけれども、
それは1502年に誕生しています。

日本に残されたもっとも古い
石造りのアーチ橋として
国の重要文化財に指定されているそうです。

「橋って何だろう、渡るときにこうなんか
 ワクワクした気持ちになったり、
 ドキドキしたり、で、あとちょっと
 傍から眺めてるだけでも飽きなかったり、
 なんかそれぞれの橋にそれぞれの表情があって
 私は橋って好きなんですね。

 なので、今週もそんな橋のお話ができて
 うれしいなと思っているんですけれども。

 どうぞ1週間お付き合いくださいね。」

<橋の歴史物語>

[2/19] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は世界に誇れる日本人のお話をしています。
 今朝は両親をエイズで亡くして、
 自分たちもHIVに感染しているという
 子供たちの生活施設『バーンロムサイ』を
 立ち上げた名取美和さんのお話をします。」

名取さんは16歳でドイツへ美術留学をして以来
通訳や写真などさまざまなお仕事をなさって、
そして1997年、お医者さんをしている
お友達を頼ってタイのチェンマイに
いらっしゃったのだそうです。

そんな中、名取さんは
HIVに感染された人たちが差別を受けたりなど
大変な生活をしていることを知ります。

それだったらこういう人たちと一緒に
仕事をしたほうがいいのではないか、
というふうに思われて、
名取さんのお仕事を手伝ってもらうというかたちで
スタートしたのだそうです。

そして名取さんがチェンマイに来てしばらくしてから、
ジョルジオ アルマーニ ジャパンから
HIV感染者のために使ってくださいと
支援の申し出があちらのほうからあったのだそうです。

そこで名取さんは自ら土地を探して契約をして、
建物を建てて、スタッフを集めて、
そして1999年の秋、
12人の子供を受け入れたのだそうです。

それから10年以上の月日が
流れているのですけれども、
名取さんがずっと努力なさっていること、
それは子供の才能、好きなことを
伸ばしてあげることだそうです。

「子供たちのね、自立の道を見つけて
 巣立っていけばいいなって願って。

 そして、今以上もっともっと効果のある
 HIVの治療薬ができることを願って。

 そして、生きているといろんなことがあるけど
 よいこともあるんだよって
 子供たちが感じてくれたらいいなって願って。

 これからの10年、その次の10年、
 子供たちにとって素敵な年月になるようにって
 ずっと願い続けていっらっしゃる
 名取美和さんという方の思い、
 心にとても感動いたします。

 こちらのバーンロムサイに貢献できるお店、
 私たちがね、製品を買うことによって貢献できます。

 このお店がですね、実は羽田空港にあるんだそうです。
 ぜひちょっとご旅行に行く際に機会がありましたらね、
 ちょっと立ち寄っていただいて、
 今日ご紹介した名取美和さんのお気持ちを
 感じていただけたらなって思います。

 というわけで今週は、世界に誇れる
 日本人のお話をさせていただきました。」

<BAN ROM SAI : バーンロムサイ>

[2/18] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は世界に誇れる日本人のお話をしています。
 今朝は昨日に続いてマラリアの脅威から
 アフリカの人を救う商品を開発した
 伊藤高明さんのお話です。」

毎年100万人以上の方が亡くなり、
その9割がアフリカの人たちで、
アフリカでは深刻な問題となっている
マラリアですけれども、WHO、
世界保健機構では対策の一つとして
殺虫剤で処理された蚊帳の使用というのをあげました。

ところが、一度洗ってしまうと
殺虫効果が落ちてしまって、
その都度再処理する必要があったのですけれども、
再処理して使うという人がほんのわずかでした。

そんな中、伊藤高明さんという方が開発されたのは、
オリセットネットという防虫効果のある蚊帳でした。

それまでの蚊帳というのは表面に薬剤を
コーティングしたものだったのですけれども、
オリセットネットは殺虫剤が練り込まれているそうで、
洗って表面から薬剤が例え落ちたとしても
樹脂の、糸の内部からまた薬剤が染み出てくるという、
そういう仕組みだったのだそうです。

ですから洗うたびに再処理する必要がなく、
さらに内部から薬剤が必要量しか
表に出てこないそうです。

「だから耐久性にも優れていたということで。
 なんて素晴らしいことなんでしょうね。」

さらに普通の蚊帳より網目が大きくて
通気性にも優れていたのだそうです。

こうしてこのオリセットネットなのですけれども、
WHOから長期的に効果があるということを
認められました。

さらにWHOの要請で
このオリセットネットの増産と、
製造技術をアフリカの方々に
伝えるということになりました。

そして、伊藤さんが勤務されている住友化学は
タンザニアにオリセットネットの
生産工場を2つつくりました。

それと同時にこの工場で働く現地の人を
4000人以上も採用したそうです。

「伊藤さんの開発は
 アフリカの人たちの健康だけじゃなくて
 雇用にも貢献したんですね。

 貧しさでマラリアの予防ができなくて、
 病気になれば働くこともできなくて、
 子供たちへの教育もできないといったような
 アフリカの貧困の悪循環を
 伊藤さんの蚊帳が少しずつ断ち切っているんです。

 ほんとに素晴らしいですね。」

<「日本の蚊帳」が世界の子どもを救う>

[2/17] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は世界に誇れる日本人のお話をしています。
 今朝はマラリアの脅威から
 アフリカの人を救う商品を開発した
 伊藤高明さんという方のお話です。」

伊藤高明さんは1973年、
住友化学に入社します。

家庭用殺虫剤の研究室に籍を置き、
同時に上司の指示によって
マラリア対策の研究を始めました。

本来の仕事とは別にマラリアの研究を
20年以上も続けられたそうです。

実はマラリアというのは
日本ではあまり身近に感じない病気ですけれども、
世界では毎年3億人から5億人の方が感染して
100万人以上の方が亡くなっています。

そのうちの9割がアフリカの人たちで、
アフリカでは深刻な問題になっています。

マラリアとはどういう病気かといいますと、
主に熱帯地方で発生する感染症の病気で、
ハマダラカという蚊に血を吸われることで感染します。

この蚊に刺されると潜伏期間を経てから高熱が出て、
そしてそれが長い期間続くそうです。

特にアフリカの地域のマラリアというのは
症状が重いらしくて、
治療が遅れると意識障害などを起こして
命を落とすということも珍しくないのだそうです。

WHO、世界保健機構では1998年、
ユニセフなどとともに2010年までに
マラリアによる死亡を50%削減する
という目標を掲げました。

その手段の一つに殺虫剤で処理した蚊帳を
使うというのがあったのだそうです。

それを村の人たちが全員使ったら
その村の全体の蚊の数が減っていくので、
例えば村の中で蚊帳に入れない人がいても
刺される可能性が少なくなるのではないか。

当初WHOが採用した
殺虫剤で処理した蚊帳というのは、
お洗濯してしまうと殺虫剤が落ちてしまい、
そのために洗うたびにまたその殺虫剤で
処理をする必要がありました。

WHOはこの再処理を住民の方に行わせることで
マラリア防止のための啓蒙活動を行えるのではないか
というふうに考えたそうなのですけれども、
ところが実際にはその1回洗った蚊帳を
再処理してまで使おうと思う人は少なかったらしくて、
期待した展開にはならなかったのだそうです。

こういった状況の中、その伊藤高明さん、
この方が長年にわたって研究を続けた結果が
発揮されることになります。

「このお話の続き、ワクワクしますよね。
 続きは明日お話しさせていただきます。
 聞いてくださいね。」

[2/16] 『鈴木杏樹のいってらっしゃい』

「今週は世界に誇れる日本人のお話をしています。
 今朝は昨日に続きまして、
 地雷を除去する機械を開発した
 雨宮清さんのお話の続きをしたいと思います。」

カンボジアで戦争が終わった後も
地雷の恐怖におびえている人たちを救いたい。

その思いからショベルカーで地雷を爆発させることを
思いついた雨宮清さんですけれども、
さまざまな難問が待ち受けていました。

爆発したときの衝撃はもちろんですが、
それよりもショベルカーのアームの部分が
爆発したときの温度に耐えきれるか
ということでした。

地雷が爆発すると瞬間1000度、
一千度にもなるそうです。

それだけの高温に耐えられるようにするには
それまでの鉄とは違う別の金属の開発が必要でした。

最終的に地雷を除去する機械が完成しましたのは、
開発に乗り出してから5年後の2000年でした。

そして、すぐにカンボジアに渡る
手続きを始めましたが、
日本の政府の許可が下りませんでした。

理由はこの地雷を除去する機械というのが
兵器として見られる可能性があったからです。

それでも雨宮さんは何度も何度も
足を運んで交渉を続けて、
2年後にようやく日本政府から許可が下りました。

ところが、最初はその機械で本当に
地雷を安全に処理することができるのか、
実績がないために信用してもらえなかったそうです。

そこで雨宮さんは自らその機械に乗り込んで
自分で操縦して地雷を爆発させました。

そしてここにはもうないですよ、
安全ですよ、完全に大丈夫ですよ
ということを証明してみせるために
雨宮さんがされたことというのは、
その機械から降りて地雷原を
歩いて見せたのだそうです。

こうした雨宮さんの努力によって、
力によって処理された地雷の数というのは
40万個とも言われています。

それまで地雷があるので危険、
立ち入り禁止とされていたところには、
お花が咲いて作物が育つようになったそうです。

中には地雷の跡地に学校が
建てられたところもあるのだそうです。

そんな雨宮さんの願いはただ一つ。

地雷で苦しんでいる人たちが
自立した生活を送れる世界をつくりたい。

「こうなればいいのにとか、
 こうしてみたいって
 心の中で願っていたり
 思っていたりする人っていうのは
 自分も含めてね、きっとたくさん
 いらっしゃるんだと思うんですけれども、
 実際このように立ち上がってね、
 その思いをね、実行されていくっていうのは
 ほんと尊敬しますね。

 雨宮さんに頭が下がるのと同時に
 胸が打たれました。」

<雨宮清~平成の世にサムライを探して~>